先日街を歩いていると、○○コミュニティセンターという建物に出くわした。近隣の集会場として使われる場所なのだろうが、平日の昼間は全く人の気配はない。
“コミュニティ”というコトバ。
共同体や地域社会と訳される。私達の社会生活は個人だけでは成り立たない。そこに住まう人同士の協力が必要だけれど、高齢化や都市の空洞化によって地域の活動がスムーズに運営できないらしい。単に人口が減少しているからなのか?いやそうではない。なぜなら人口が増加している地域でも住民のつながりは弱まっているのだから。
人口約8,000人。田畑の中に集落が点在している長閑な農村風景。そんな場所で私は育った。秋の運動会では大人たちも集落のプライドを掛けて綱引きや対抗リレーに熱狂していたし、お正月には田んぼの真ん中でドンド焼きをやった。集落の結束はとても固かった。イタズラをしたときも、悪行は親たちに確実に伝わった。アナログだったけれど完璧な情報ネットワークが小さな集落に張り巡らされていた。
でも、嫌なこともあった。他人の眼がとても気になる暮らし。髪を金髪に染めようもんなら、完全にあの子はグレたと烙印を押されてしまう典型的な村社会。母親や近所のおばさん達が噂話に熱中する姿も嫌だった。「アー、早くこんなところから出ていきたい!」と中学生の私は毎日考えていた。
現代にもどる。
近隣の人間関係の希薄さ。誰かがやってくれるから自分はそれに従えばいいという空気。誰かのために何かをしてあげようとする“良質なおせっかい”が社会全体で欠如しているのように思える。昔は嫌だった地域のコミュニティだけど、今になって思えばやけに懐かしい。確かに面倒なこともあったけれど、やっぱり大切なものだったと気付く。
ノスタルジーに浸るのではなく、現代版のコミュニティをみんなで創っていきたい。地域だけでなく、仕事、趣味、興味、さまざまな切り口でのコミュニティが存在するはずだ。誰かがやってくれるのを待つのではなく、自分達自身の手で現代の生活にあった着心地のいいコミュニティをつくりたい。